あなたは、セト人をご存知ですか?
聞き覚えが無い方も多いのではないでしょうか。
今回は、セトはどんな民族なのか、セトの問題などについて紹介します。
セト人とはどんな民族?
セト人とは、エストニア南東部からロシアにかけての地域に住む民族です。
民族的にはエストニア人に近く、古来からあるエストニア文化の要素も見られます。
一方で、セト地域は、エストニアの他の地域と異なり、1920年にエストニアに編入されるまでロシアの領土でした。
そのため、ロシアの文化の影響を色濃く残しています。
このような理由から、エストニアの他の地域の人々とは違った見方をされます。
エストニア語とセト語の違い
セト語は、言語学的にエストニア南部の方言の1つに分類されます。
なので、エストニア語やフィンランド語などと同じフィン・ウゴル語派に属します。
しかしセト語は、フィン・ウゴル語派の祖先であるバルト・フィン語の名残がよくみられます。
それに加えて、ロシアの言葉がしばしば取り入れられているのも特徴です。
セト語は話者が少なく、エストニア側のセト地域の人口40000人(2012年当時)に対して、話者は約5000人と言われています。
セト族の民族衣装
民族衣装にもロシアの影響が見られます。
エストニアの他の地域の民族衣装はカラフルですが、セト地域は赤と白が基調となっています。
この2色はセト族の伝統色なのですが、このような特徴はロシアの民族衣装にもみられます。
白いブラウスの袖にはいっている赤い模様がかわいらしいですね。
そして最大の特徴は、胸元にたくさんの銀飾りをつけていることです。
この銀飾りは先祖代々受け継がれるもので、家の裕福さを示しているとも言われています。
巨大な半球状の飾りは、結婚した女性が身に付けるもので、重さが2kgにも及びます。
セト地域の問題
民族分断問題
セト地域は、1920年にエストニアに編入されたものの、1944年には地域の約75%がロシア共和国側に戻されてしまいました。
1980年代末のエストニア独立運動の際には、セト地域の完全なる分断を防ぐため、セト全域のエストニアへの返還運動が起こりました。
しかし1944年当時の国境線のまま返還され、結果としてセト地域の住民の多くがロシア側に取り残されてしまいました。
ロシア側住民の多くはエストニア側に移住しましたが、未だに両政府に対して不満をもつセト人も多いです。
民族意識の問題
また、エストニア人として生きるか、セト人という独立した民族として生きるかという、民族的アイデンティティの問題もあります。
民族意識の問題については、セト地域の中でも意見が分かれています。
いかがでしたか?
今回は、エストニアの少数民族セト族について紹介しました。
ぜひ参考にしてくださいね!
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